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市井の荒波にもられるアラサーが、無駄に本心をさらけ出します

ひっさびさの更新(厨二病成分を多分に含みます)

 自分の言葉が無い。自分の想いが無い。文章を書きたい。元ネタが無い。
 僕の言葉は受け売りだ。読んだ本。人の意見。たまたま目にした煽り文句。僕の口から出るのは、他人の言葉ばかり。自分がどう思うか。自分が何を言いたいか。全くない。ただただ、他人の言葉を垂れ流すだけ。
 「で、お前はどう思う。」何とも思わない。へぇ、ただそれだけ。それっぽいこと、だったらいくらでもいえる。キャリア云々。人生云々。だけど。その実。何も思っていない。その場に合わせるだけ。無難な言葉を、取捨選択しているだけ。意見なんてない。求められても答えようがない。
 あるいは、あるかもしれない。ただ、重すぎて言えない。言っても理解されない。理解してくれるまで、聞いてくれない。分かりやすく言うべき? 北海道民に鹿児島の猛暑を説明できるか? 鹿児島県民に北海道の豪雪を説明できるか? 世界が違う。価値観が違う。何もかも違う。そんな相手に、説明できるか。僕にはできない。
 見つけた。短文の積み重ね。刹那の文章。主語も述語も無く。想いの積み重ね。これで書く。とことん研ぎ澄ます。
 自分の言葉はない。未だ見当たらない。だけど、しゃべり方を見つけた。自分にしかない。自分だけの喋り方を見つけた。はてなに投稿する。パクられるかもしれない。けれど、オリジナル以上にかけるとは思えない。だけど、これを公表しなければいけない。自分の言葉として、公表しなければいけない、パクリとは思われないように。

独り暮らしも落ち着き

 気ままなシングルライフを送ってます。独りで鍋やったり。独りで近所のパブ行って飲んだくれたり。独りでカップルだらけの東京タワー登って、夜景を楽しんでみたり。まさに、謳歌しすぎです。最近は涙も流さない。ロボットでもマシンでもないのに。だけど、正義の心はわかりません。
 それはさておき。年も変わったことだし。今年は真面目に更新しよう、うん。

東京さ出てみる

 毎日更新するといったのに、この体たらく。でも大丈夫! 自分はできる子!! ふぁいと、だよ。
 などと光の速さで自分を甘やかしつつ数か月、生活にいろいろと変化がありました。
 ・関東に戻ったこと
 茨城が完投じゃないとは申しませんが、いややっぱり申す。10月から東京に戻ってきました。正確にいうと実家だから横浜。だけど東急沿線だから半分ぐらい東京。
 3年半ぶりの満員電車に戸惑いつつ、コンビニの多さにぶったまげつつ、あたかも上京したばかりの大学生のようなアーバンライフを満喫しております。

 ・実家を出ること
 実家暮らしもつかの間。独り暮らしすることにしました。独身寮とかじゃなく、マンション借りて。ワンルームだけど。
 うかつに母校への愛を語ると、色魔に囲まれてシメられそうな無法地帯です。愛用のジャージが着れません。絶対身ぐるみ剥がされます。

 こうやって書いてみると、あまり大したことない、愕然。

午前中に引っ越す……だけど、荷物なんかまとめちゃいない……まさに……逆境っ!

なんというか、自分の自意識が強いと思う人は、「私の自意識は何で構成されているのか。それはいつから、どういうことがきっかけなのだろうか」という問い直しが必要かもしれんね。それで、その自意識への執着がペシミズムから成り立っているのなら、そこはどんなに辛くても変えていかなくてはいけないのじゃないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20120926/1348673235

 なるほどとは思います。自分自身、「元デブだったけど痩せた」っつー所にアイデンティティの大部分が乗っかってるわけで。さらに、今の自分が「デブ」か「非デブ」か、判断できる基準が無い。そりゃ、体重とかBMIとか体脂肪率とか、客観的なモノサシはいくらでもあるけれど。要は他人にどう思われるかなんですね。体重が有ろうと体脂肪率高かろうと、周りの人に「痩せてるねー」と言われればそれでいい、たとえ実際の数値がどうであろうと。
 それって、つまる所「自分が痩せているかどうか、人の目が気になる」 ⇒ 「自分自身が痩せているかどうか判断できない」⇒ 「『痩せている自分』として確立したアイデンティティを、1人では維持できない」。他者からの承認なしには「自分」としていられない。こっから脱却するためには、なんか違った形で自己を確立していかないと。

僕がッ!泣くまで!殴るのをやめないッ!(自分を)

早稲女=ワセジョとは、早稲田大学に通う女子学生のこと。ネットで検索すると、その特徴は「男勝り」「女子らしさがない」「お洒落に無頓着」「自意識過剰」などと挙げられている。

http://ddnavi.com/news/76352/

 久しぶりに母校に顔をだし、たまたま寄った生協で目に入り、なんとなくひかれ合うものを感じたので購入。東横線で実家に向かいがてら読み始める。最初の数ページで表情筋のコントロールが不可能になったため口角周辺がひきつり、20ページ目あたりで襲い来る敗北感にあらがうべく力いっぱい目を見開き、第1話を読み終わる頃には思い切り本を床にたたきつつ床に転がり周囲の迷惑を顧みずに号泣したくなり。どうしようもない敗北感を必死にこらえながら、やっとの思いで本を閉じた。そうこうするうちに乗換駅に到着したので、平静を精一杯装いつつカバンに本をしまい電車を降りたら、色魔と低能だらけ。オレのそばに近寄るなああーーーーーーーーーッ

 「早稲女」についてはよく分かりません。いや、大学生活のどこかで遭遇する機会はあったかもしれませんが、縁が無い。などと書いてしまった途端、清龍前の立て看板だとか、今は亡き3号館4階の小部屋とか、横切るどこじゃ過ぎない分量のイメージが脳内を錯綜し頭を抱えてしまうぐらい。だけど、書ずにはいられない。例え「早稲女」にどれほど恐怖しようとも、絶対に乗り越えなくてはならない!それが『生きる』という事なのだッ!

 にしても、ひどい。実にひどい。 キャンパスライフってのは、もっと荒んでるでしょッ!! 酔った勢いで隣のサークルにからんでヒンシュクを買い、酔った勢いでシャレにならんメールを各方面にばらまき、あまつさえ酔った勢いで暴れまわった挙句にドブにハマって周囲の大爆笑を誘い。食堂ではキャッキャウフフと盛り上がるリア充を尻目に飯を喰らい、テスト勉強は過去問ゲットするアテも無いから一人黙々とノートをまとめ、気が付けばひたすら空手をやるだけの毎日。あんまりだ…HEEEEYYYY!あんまりだアアアア!

 とにかく、「大学デビューして彼女作るんだ」という男子校出身のDTくさい妄想は完膚なまでに打ち砕かれ、残るのはどうしようもない劣等感と尽きることのない敗北感。いわゆる世間一般の大学生活ってのはそんなモン。だと思っていたら。なにこれ、てサブカル気取りがこんなにモテるの? 女連れて円山町で映画とか。 ありえない、絶対ありえない。 「どの本借りても図書カードに同じ名前」ぐらいありえない! でも羨ましい。なんだかんだで面倒見てくれる世話好きな人とか羨ましすぎる。あと、そろそろネタ探し疲れた。

早稲田大学に存在する、第三の性別。「生物学的に女」である。 早稲田にいる女はみんなどこかおかしい → そもそも女じゃないんじゃね? という思考の下、生まれた言葉。 この言葉を使用するのはおっぱっぴーな男子学生のみであり、女子生徒に対して使うとマジ切れされるので注意したい。

http://ansaikuropedia.org/wiki/%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6#.E6.97.A9.E7.A8.B2.E5.A5.B3

 実際のところ、こういうイメージが正しいかどうかってのは判断できませんが、ガチで悲しくなってしまうほどに。先日(と言っても数年前)、カラオケ行ったら早稲女が居ました。おじゃ魔女カーニバル歌ってました。一緒に歌おうと思ったけどやめときました。今思えば賢明だったと思います。
D

ジレンマ? ウルトラ怪獣です

幸いにも、いつも私を誘ってくれるありがたい友人がいるので、そういう人と誘い誘われるいい関係を目指そうと思いました。

あと、ひとりでどこへでも遊びに行けるように努力をしています。

最近、一人で映画を観に行くことに喜びを感じるようになりました。

http://anond.hatelabo.jp/20120916235010

 幸い誘ってくれる友人がいることを感謝しつつも。そうは言っても1人映画や1人イベントはさびしい。基本的に1人がデフォで、うかつに誰かと行こうモノなら映画よりも相手が気になってしまうから、なるべく自分1人で行きたいと思うわけで。そうは言っても、映画館から出るときに「楽しかったねー」「そうだねー」と会話している、そういう人たちを見ると、大変羨ましくなります。面白かった、つまらなかった。他愛も無い感想を共有できる相手がいれば、そう思うときはあります。
 いや、さすがにね。一緒にエル=トポ見た相手が感動していたら、そりゃヒきます。

久しぶりに更新しようと思ったけれど、ネタが無い。仕方がないからなんとなく思いついたことを書いてみた。

 「哲学的リア充」なる言葉が頭から離れない

哲学的ゾンビが仮に存在するとして、それはどのように見えるだろうか?哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%93

 たとえどんなに努力して、リア充を目指したところで、所詮は模倣に過ぎず。どれだけ外面を取り繕うとも、中身が伴わない。いわば、哲学的ゾンビの亜種に過ぎない。
 「哲学的リア充」という概念があると仮定した場合、「リア充になろう」という試みは、押しなべて破綻する。どれほど努力しようとも、非リアは非リアでしかなく、オシャレしたところでコミュ力磨いたところで、リア充ぶってる非リアでしかない。