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市井の荒波にもられるアラサーが、無駄に本心をさらけ出します

幸せについて本気出して考えるグラフィティ

はてなブックマークを毎日見ているけれど、何年か前の頃のように、
非モテについてのエントリーが散発的に上がる光景をとんと見なくなった。

http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20120610/1339320980

 毎日のように、朝から晩までリア充について思いを巡らせている僕だから、こんなエントリを放っておけるはずがない。「非モテ」と「非リア」、言葉は違えど言わんとしていることは同じです。気になったのは、何故自分が「非リア」でここまでエントリを書いているのか。日常の話題とか、気になるイベントとか、色々あるにもかかわらず。別に人様が手前のブログに何書こうがどうでもいい。実際にエントリ数が減ったかどうかもどうでもいい。エントリ数の統計とってる人いました。実際減ってるみたいです。いくら考えたところで、部屋で悶々としているだけではリア充になれるわけでもなし。それでも考えを止められない。いったい何が、僕に日々「非リア」について語らせているのか。
①元手がいらない。
 自分が考えていることを書くだけだから、元手がいりません。アイテム揃えたりとか、どこかに行ったりとかも必要ないので、実質コストかかりません。それに、これでもかっていうぐらい年中考えているので、シャーペンとメモ帳さえ携帯していれば、ネタに困りません。
②テーマが普遍的
 何と言っても、「リア充になりたい。充実した毎日を送りたい」ってのは、誰しも持つ願いです。古今東西、様々な創作のネタになってます。直近だと、先日観た「GIRL」とか。なんだかんだ言いながら「リア充になって楽しい人生送りたい」ってのは常にあります。大事なのは、リア充ワナビーとしてアンテナ張ること。そうすれば何を見ても何を読んでも、どこかしら引っかかる部分はあります。それこそ古代の哲学者から最近の映画まで。というわけで、ネタ探すうえで「リア充」関連は、大変楽です。
③そうは言ってもリア充になりたい。

非モテってのは、「悔しさ」だったなあ、と今改めて思う。
ファッションだったり、トークだったり、
モテに必要なスキルが自分には足りない。
それ以外なら(例えば勉強ができるとか、相手をいたわる優しさとか)だったら自信あるのに、
なぜ、一部のスキルがないだけで、たったそれだけの理由で、
モテてる人たちが味わっている「いい思い」を、自分が味わうことができないんだ、という。

裏を返すと「自分にだって味わうことができるはずだ」という思いがある。
あるいは問題と感じてて「クリアできるならどうにかしたいよ」という思いがある。

http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20120610/1339320980

 少し前まで「悔しさ」ってのを常に感じてました。「こんなにリア充になろうとしているのに、何故なれないのか。ムキー」とか。かと言って今でも決してリア充ではなく(その辺の葛藤についてはまた別途) 「自分を表現できる趣味」や「自分を支えてくれる彼女」みたいな、いわゆるリア充っぽい要素に憧れます。どれだけ内面取り繕ったって、憧れるものは仕方がない。かといって「僕とは違う世界の出来事だ」と、キッパリ諦めることもできない。じゃあどうするか。「どうやったらリア充になれるか」と日々考えつつもPDCAを回すしかない。そう簡単に成果に結びつかないと、内心わかっていつつも。だったらせめて、ブログのネタにでもしてやろう。そういう、切なくもみみっちい思いがあります。アラサー非リアの慟哭を読みたがる読者がいるのか、という根本的な疑問は脇に置いておいて。

本日のレビュー 「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」


監督は渚カヲルのモデルらしいです。