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市井の荒波にもられるアラサーが、無駄に本心をさらけ出します

非モテについて本気出して考えてみたけれど

だが、そのことを持って「人々は非モテ問題に関心がなくなった」という風な結論を出すことができるかどうか。それについては、僕は断固として「違う」と言いたい。むしろ、「非モテ」という言葉が使われず、そのような問題が取りざたされなくなったことは、むしろ「非モテ」という問題が重篤化し、対処不可能なものとなっていることの表れであると、僕は考える。この記事では、その論拠を明らかにした上で、そんな今だからこそ、きちんと「非モテ問題」と向きあうことの重要性を訴えたいと思う。

http://d.hatena.ne.jp/amamako/20120615/1339729240

 非モテのための、非モテによる、非モテの熱いエントリを見つけてしまった。妙に触発されてしまった。非モテを自称する自分としては、何か書かずにいられない。というわけで、非モテについて語ります。

 まずは、「非モテ」とは何ぞや、という話。「非モテ」とはつまるところ、「共同体に所属しつつも共同体に帰属できない価値観を抱えた、孤立せざるを得ないアウトサイダー」だと思うわけで。人間は生きていくうえで、常に何らかの共同体に所属しています。国家なり、会社なり、学校のサークルなり、共同体の粒度は異なりますが。共同体に所属するためには、共同体をまとめ上げるための、何らかの共通の価値観にコミットせざるを得ない。「日本」という国家であれば、「自分は日本人である」というアイデンティティだし。サークルであれば、「自分はこのサークルの一員だ」という価値観だし。例えその価値観を受け入れるために多少の不利益を被ったとしても(国家だったら税金払うとか、サークルだったら飲み会でイッキさせられるとか)、共同体の一員でいるための犠牲だと思って割り切るしかない。
 などと言っても、人間千差万別だから、どうしても譲れない点ってのはある。日本国籍を取得しない外国人とか、イッキは絶対にやらない新人とか。「非モテ」「非リア」ってのは、そういった「絶対に妥協できない何かを持つ故に、共同体に参画しきれない」人々なんだと思います。飲み会でみんなが盛り上がる中、そのテンションについていけない人。どれだけ人が集まろうと、どれだけ親身になる人が集まろうと、どうしても仲良くなりきれない何かを持っている人。
 そういった性質が故に、「非モテ」は「非モテ」としての共同体を形成できない。仮に「非モテ」としての共同体を作ったとする。それは、所属するメンツがみんな「なんか違う」と思ってしまうような、イビツなものとなってしまいます。「非モテ」が「非モテ」だと感じる理由ってのは、人それぞれ異なります。ある人は「彼女がいない」っていう理由かもしれない。またある人は「飲み会ではしゃげない」っていう理由かもしれない。とにかく、「非モテ」と感じてしまう理由は人それぞれです。にもかかわらず、「非モテ」として団結しようとすれば、誰でも納得しうるような「非モテのテンプレってこうだよね」という共通認識が必要となる。誰もが納得しうる一方で、誰もが「自分の『非モテ』とは違うなぁ」と感じてしまう、再々公約数にならざるを得ない。
 それでは、「共同体に所属できない」非モテが、共同体の中でどうやって生きていくか。「なんか違う」という意識を我慢できれば、話は早い。例えば「それ違うだろ!!」と思いつつも、空気を読んで愛想笑いしてみたり、とか。確実にストレスがたまります。
 あるいは、「非モテは空手も何もやっていないモテに勝てない。だったらモテになっちまえばいい」? そう簡単じゃない。なれるんだったら苦労はない。
 というわけで、「非モテ非モテとして在り続けるにはどうすればよいのか」。明日に続きます。

本日のレビュー「死に至る病

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)


本書は「死に至る病」としての「絶望」についてクドクド語っています。この「絶望」っていうのは「非モテ」に通じるところがあります。キルケゴールさんは「救いは信仰にある」というけれど、神様信じられない我々は何を信じればいいのか? 絶望を忘れるような趣味嗜好を見つけりゃいいのか?